妙好人とは・・・

妙好人の語源をたずねて

『妙好人』ということを経典に求めるならば『観無量寿経』の、

もし念仏するものは、まさに知るべし、
この人はこれ人中の分陀利華(ふんだりけ)なり。

がそれである。また善導大師の『観経四帖疏』があり、親鸞聖人はそれを『顕浄土真実教行証文類』に、

ゆゑに芬陀利を引きて喩へとす。分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四つには、弥陀の名を専念すれば、すなはち観音勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり、命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり。

と引用された。そして、聖人は『正信偈』を作られて、

一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏(ぶつ)広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。

と述べられているとともに、『入出入出二門偈』には、

淤泥華(おでいけ)といふは、『経』に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。

と示されている。これは、「卑湿の淤泥」、「煩悩具足の泥中」にあって花開く蓮華の美しさ、香ばしさに、真の念仏者、妙好人を見出だされたに他ならない。

仰誓和上と『妙好人伝』

さて、浄土真宗の篤信者を「妙好人」と呼ぶ。
これは、市木・浄泉寺(邑智郡邑南町市木)の第11代住職・実成院仰誓(1721~1794)和上が再編集された『妙好人伝』(上下2巻)に数多くの篤信者が紹介されたことによって一躍注目を集め、ひろく布教伝道の場で利用されるようになった。そして、『妙好人伝』は僧純、象王等の続編を相次いで生み出し、『妙好人伝』(永田文昌堂刊・1958年)には、全国に157人を数えている。
仰誓和上は23歳の時、伊賀上野・明覚寺(三重県上野市中町)の住職となり、大和の清九郎をはじめ、多くの篤信者に会うことができたことが縁となり、それら篤信の人々の逸話を集めて『親聞妙好人伝』という小さな本を編集した。
その後、石見地方に流行した「円空の邪偽」という異安心の教諭と、住職不在であった市木・浄泉寺からの要請とが相俟って、嗣法履善を伴って入寺したのが41歳の時であったという。浄泉寺に入寺して、仰誓・履善父子は教化伝道に努めた。浄泉寺は門下に33の寺院を有する大寺院であったが、入寺の年に学寮を開設し、明和年間(1760年代後半)が44人、安永年間(1770年代)には61名の入寮者があったことが知られている。履善と共に「三業惑乱」において活躍した西田・瑞泉寺(大田市温泉津町西田)の学匠・自謙はその高弟の一人であり、他に誓鎧、唯浄らを傑出している。
『妙好人伝』は、仰誓和上の没後25回忌に際し、履善、克譲、法梁らが梓行を計画し、天保4(1833)年誓鎧の序と僧順の跋(ばつ)を加えて開板されたという。

(以上、『山陰真宗史』より略出)

山陰の妙好人

  1. 小浜の才市
  2. 因幡の源左
  3. 有福の善太郎
  4. 嘉久志の仲造
  5. 『妙好人伝』(永田文昌堂刊)にあらわれたる妙好人
    初篇・巻上・・・・・・  石州・九兵衛
    石州・石橋寿閑
    初篇・巻下・・・・・・  石州・源三郎
    石州・善兵衛
    二篇・巻上・・・・・・  石州・妙性尼
    伯州・清兵衛
    二篇・巻下・・・・・・  石州・おはつ
    三篇・巻上・・・・・・  雲州・神谷備後
    石州・磯七
    四篇・巻上・・・・・・  雲州・敬常
    雲州・万助
    伯州・九右衛門
    四篇・巻下・・・・・・  石州・磯七
    石州・善太郎
    雲州・きく
    五篇・巻下・・・・・・  石州・善右衛門
    石州・長蔵

これより、山陰の代表的な妙好人の方々の略歴をご紹介してまいります。

山陰妙好人MAPへ

小浜の才市(浅原才市さん)

いいな せかいこくうが みな ほとけ わしもそのなか なむあみだぶつ

浅原才市さんは、嘉永3年(1850)、現在の島根県大田市温泉津町小浜に生まれました。
万延元年(1860)、11歳のとき、親戚の船大工の棟梁のところへ、弟子として年季奉公に入りました。
そして、明治15年(1874)、25歳で結婚。その後、九州福岡県下へ出稼ぎに行きました。
明治7年(1882)、33歳のとき、帰敬式を受け、法名「釋秀素」を授けられました。
明治27年(1894)、45歳のとき、父親の要四郎が逝去しました。要四郎は、子供のころ、師匠寺の涅槃寺の小僧となり、剃髪して西教と称していました。才市さんの詩の中に
「おやのゆいごん なむあみだぶつ」
という言葉があります。
明治37年(1904)、55歳。この頃より小浜に定住し、下駄職人を始めました。
大正2年(1913)、64歳。詩をノートに記し始めました。そして、書き溜めたノートを近くの安楽寺・梅田謙敬師に披瀝して、批判を仰ぎました。
昭和7年(1932)1月17日、83歳で逝去。昭和12年、妻セツ87歳で入寂。
その後、寺本慧達師・藤秀璻師等によって、その法悦の詩が世に紹介され、殊に、昭和19年に発刊された、鈴木大拙師の『日本的霊性』等によって、希有の宗教詩人として世界中に知られるようになりました。

因幡の源左(足利源左さん)

とにかく お慈悲の力は ぬくいでなぁ

足利源左さんの本名は、足利喜三郎といいます。
天保13年4月18日に生まれました。
14歳のころ、「名開き(なびらき)」という土地の習俗により、自ら源左衛門と称しましたが、略して源左と呼ばれるようになりました。
その体躯は頑丈で、日置郷一番の若衆(若者)と呼ばれ、性格は激しく、したたかな中にも、素直で優しさを湛えた人柄でした。
19歳のとき、鳥取・池田藩より、「心得宜敷」として、ご褒美に鍬壱挺・鎌壱枚を頂戴しました。このときの「御切紙」が現存していることからも知られます。
入信は、30歳過ぎと推定されています。安政6年、源左さんが18歳のとき、父である善助がコレラに罹り、急死しました。臨終の言葉に一言、
「おらが死んだら、親様をタノメ」
これが聞法の動機となり、善知識を尋ねて、東奔西走すること10有余年。ご本山へも3度も聞法の足を運びました。
しかし、ついに信は得られず、夏草刈へ出かけて草を牛の背に着けようとしたとき、
「ふいっとわからせてもらった」
「おらぁ城谷で夜明けをさしてもらってのう、それからように安気になりましたいの」
と、語っていますが、現生正定聚に住したのでしょう。ここに、人間源左は、妙好人源左と生まれ変ったのでした。
爾来、昭和5年2月28日、88歳で没するまで、苦難の人生ではありましたが、
「おらには苦があって苦がないだけのう」
と、大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びながら、災禍を転じて徳となして生かされたのでした。源左さんの居るところ、そこには、浄土の風が現出したのです。
それゆえに、源左さんの言行は、多くの人々に深い感化を遺しました。お念仏に生かされる歓喜を常に行動によって、多くの人々に伝えようとしたからです。まさに、行動する聞法者でした。
その言行録は、昭和25年民芸運動の創始者、柳宗悦によって、編集上梓されました。氏いわく、
「今日のような暗い時代に、源左こそ新しい光であると言えないでありましょうか。源左は今も活き、永久に生くる源左であります。」

有福の善太郎さん

おがんで たすけてもらうじゃない おがまれて下さる 如来さま

善太郎さんは、天明2年(1782)10月、現在の島根県浜田市下有福町に生まれました。
天明6年(1786)、5歳で母キヨと死別したことから、若い頃は暗くすさんだ「毛虫の悪太郎」の日々を送りました。トヨと結婚しましたが、サト(2歳)、ルイ(2歳)、ノブ(3歳)、そめ(3歳)という4人の愛娘を11年の間に次々と失うという深い悲しみに出会いました。以来、「よくよく重ねて重ねてご開山のご意見にとりつめてお聞かせに遇うて」ついに、念仏の法にめぐりあうことができ、その大きな感動と喜びが生涯を支えることとなりました。
善太郎さんは、後半生、独特な字を連ねて筆まめに書きました。暖かい体温と土のぬくもりを感じさせる筆跡が今も数多く残されています。ほとんどの手記に、「この善太郎」という言葉が顔を出していますが、「この」という二字(「この」を重ねて、「このこの善太郎」とも書いている)には、宗教的実存の比類のない確かさと重さがあります。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という深い実存的自覚が二字に見事に結晶しています。
善太郎さんの「つねのおおせ」になっていた「この善太郎(がために)」の一句こそ、善太郎さんその人の一生の姿勢と精神を端的に言い表しているいのちの言葉であるといえます。
74歳の11月に長い手記を書きつづり、その最後を「金剛の信心ばかりにてながく生死をへだてける、この善太郎」と結びました。
年が明けて安政3年(1856)2月8日、75歳、「有福の念仏ガニ」の生涯を静かに終えました。
古い「善太郎」に死んで、新しい「この善太郎」(法名釋栄安)に生まれ変わり、「このこの善太郎」に生き尽くした一生でした。
後に、僧純撰『妙好人伝』第四篇(巻下)に紹介されました。

嘉久志の仲造(小川仲造さん)

倒された竹は芽も出る 起きもする 倒した雪は 後かたもなし

小川仲造さん

小川仲造さんは、天保13年(1842)江津市嘉久志に生まれました。
色はあくまで黒く、眼はことに大きく、一見恐ろしい顔であったと伝えられています。父母に孝養を尽くすこと厚く、県知事より表彰されました。
35歳の頃、愛児をつぎつぎに失い、深く無常を感じ、熱心に聞法する身となり、常に高座の前に座り、「アー有り難い南無阿弥陀仏ナムアミダブツ」と云い、眠気がさすと胸をつねっていたから、胸には紫色の斑点が絶えませんでした。時には己を忘れて詠い踊ることもありました。
義心に富み、明治36年の麦の凶作の時には、自らの損得を忘れ、農民の困窮を救うため、地主とかけあいました。
麻を商い、県内はもとより、遠く山口県萩市方面にまで行商に行き、粗悪な品物は上に、良い品物は中にするので、みなに信用され、商売は繁盛しました。行商先で聞法の講を開きました。
また、慈悲心あつく、県内はもとより、山口県、岐阜県に火災や地震があったと聞くや、金品を贈って罹災者の救援に努めました。
その他、数多くの善行、徳行をなし、明治45年5月28日、行年71歳で没しました。本山より大鏡院の院号を授与されました。

小川チエさん

仲造さんの妻で、仲造さんに劣らず、お念仏を悦び、詠いながら踊る姿は、皆を驚かせました。その法悦の歌は、鈴木大拙博士著『妙好人伝』に紹介、絶賛されています。

小川市九郎さん

仲造さんの長男で、少年時代から勉強が好きであったが、家が貧しく、尋常小学校高等科に入るも、教科書を買うことができず、人から教科書を借り、筆写して学んだといいます。
父である仲造さんを助け、よく働きましたが、20歳過ぎてから眼を患い、治療の甲斐もなく、遂に失明しました。
肉眼を失った市九郎さんは、仲造さんのやさしく力強いはげましとその妻ウメノさんの内助の功により、家業を維持し、家庭は極めて円満で、念仏の香り高く、昭和38年9月、84歳で没しました。
仲造夫妻によって築かれた念仏の家庭は、2代目市九郎さん、そしてその子や孫へと念仏の花を咲かせつづけています。